〜 被災地岩手を訪ねて 〜
9月20日9時35分、予定通り飛行機は花巻空港に到着した。
台風15号の影響か、飛行機が厚い雲を抜け、東北の大地が見えるようになったのは着陸3分前だった。
窓の外に広がるのは、収穫を終えた田と、刈り取りを待つ黄金色の田、そして緑の圃場が織り成す美しいパッチワークだ。
久しぶりの東北は寒かった。気温13℃。昨日の雨から急に寒くなったらしい。長袖の上着がないとつらい。
バスに乗り国道283号線を遠野に向かう。
空港からほどなく北上川を渡る。かなり降ったのだろう、川幅いっぱいに濁流が石巻めがけて押し下る。
こちらの土の色なのか、無言の流れは黒茶色に濁っていた。
東北新幹線「新花巻駅」を過ぎ、国道は猿ヶ石川に沿って遠野に続く。
沿道には「がんばろう」「蘇ろう」「ありがとう」「絆」など、いたるところで被災県の思いが、道行く者に、また自らに語りかけられる。
JR釜石線が国道に着かず離れず走っているが、遠野までの約1時間、列車を見ることはなかった。
遠野は宿場町の面影を残す、しっとり落ち着いた街だった。地元支援グループの代表から説明を受ける。
遠野は内陸にある盆地で、北から「大槌」「釜石」「大船渡」「陸前高田」など沿岸部の主要な都市から一日で往復できる位置にあり、山と海の物品とともに情報や人も行き交う重要な町であった。1と6のつく日が市日であったという。
三陸(陸奥・陸中・陸前)地方は古くから頻繁に津波の被害を受けている。
30年に一度やってくるという津波のたび、その立地と、また南部藩筆頭家老の領地という立場から、津波の被害を受けない遠野は、南部の後方支援の地としての重い役割を果たしてきた。
今回の震災でも遠野に支援基地がいち早く設置され、今なお懸命の被災地支援を続けていることを「宿命的DNA」と代表は語る。
しかし、古来遠野は貧しい土地であった。三年に一度の不作、冷害は六年に一度、さらには九年に一度飢饉が遠野を襲った。
柳田國男が後世に伝えた「かっぱ」も「座敷わらし」も見方を変えると、貧しい地方の悲しい実態であるという。「デンデラ野」という姥捨てのシステムも存在した。
そんな遠野が「いざ」というときには、ひとり南部を支えてきたのである。
遠野を出て、いよいよ被災地を目指す。国道107・340号を陸前高田に向かう。
途中、多くの「大阪府警」のパトカーとすれ違った。常時100名ほどが駐留し、信号がなくなった交差点で交通整理などを行っているということだった。
「これより先津波浸水想定区域」という標識があった。しかしその先も、海に向かって町並みは続く。
港町陸前高田に流れ込んでいるのは「気仙川」だ。津波はこの川を7キロさかのぼって流域に甚大な被害をもたらしたという。
変化に富んだ流れが国道沿いに延々と続く。
強く濁っていたが、条件がよければいい釣りができるだろう。「おとり鮎」の看板も見られる。
河口近くで数名の釣り師が竿を出していた。竿の長さから判断するとどうやら鮎釣りをしているようだ。しかしこんなに濁っていて掛かるのだろうか。
そんな風景はカーブをひとつ過ぎて一変する。
すさまじい光景だった。
目に飛び込んできたのは激しくひしゃげたおびただしい数の車だ。
トラックや軽自動車、消防車。どれもが大事故に遭ったように原型をとどめていない。
それらが整然と並べられている。車の墓場である。
瓦礫の山もそこここに墳墓のようにそびえている。
6ヶ月という時間の経過は、瓦礫の山に雑草を繁らせていて、遠目には小高い丘にも見える。
しかしそこに積み重なっているのは、何万という人たちの生活の痕跡であり、打ち砕かれた夢であり、無念の叫びである。
港町の営みを守るはずの防波堤が、積み木のように、遠くで力なく転がっている。
ふと足元に視線を移して、不動産広告の間取りのようなコンクリートの並びに気がついた。
住宅の土台だった。よく見るとコンクリートの間取り図は延々と防波堤まで広がっている。
町が消えたのだと知った。
さらに大槌に移動して言葉を失った。
津波だけでなく火災にも襲われたこの町で、どれほど多くの命が奪われたのか、ふくらまないまま摘まれてしまった小さな夢がどれだけあったろうか。
思わず合掌した。
この凄惨な光景は、被災地の人々にとっては越えなければならない現実である。
しかし、前述の代表はつい最近まで被災現場にカメラのレンズを向けられなかったという。
多くの人々が過酷すぎる体験をし、被災地にはいまだ語ることのできない話が折り重なるように埋もれている。
この現実を乗り越え、被災地が未来に向かって再び力強く歩みだす日はいつになるのか。
それまで私達日本人は、こころを合わせて被災地を支援し続けなければならない。
一泊二日の短い旅だった。
私はいつかあの気仙川に竿を伸ばすことがあるだろうか。
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